歩くこと=徒歩(トホ)すること=徒歩(カチ)すること。
日常の中で徒歩することを自然体の習いとする
ともかく、何はともあれ今日まで歩いてきました。
あれこれと歩いているうちに、歩くことが仕事の領域になってしまいました。
ワタシは昭和のおわりりころ『街道文化倶楽部』というアマチュア倶楽部を主宰していました。
そのころから街道を通して、歩くことを「徒歩」(かち)と呼び習わしてきたのですが、あれから今日に至り、
このところ、ようやく徒歩(カチ)と言う言葉の存在が少しずつ認知されてきつつあるようにおもいます。
あのころは「徒歩」(カチ)といってもほとんど通用せず、徒歩(トホ)といわざるを得ませんでした。
まったくもって「徒歩々の歩」で、苦笑いしていました。
歩くことはコトバをかえても「徒歩」(トホ)というのが一般的で、それを敢えて「徒歩」(カチ)というほどのこともないのでしようが、
ワタシは徒歩(カチ)という古風な物言いが好きで、世の習いにおかまいなく、独り合点でそう呼んできました。
当時はワ-プロ隆盛の時代でしたが、「徒歩」(トホ)は出てきても、「徒歩」(カチ)という用語は出てきませんでした。
いまは「徒歩」(カチ)という言葉も検索用語としていっぱい出てくるようになりました。うれしいことです!
宮部みゆき著『平成お徒歩日記』が出た。でも徒歩(カチ)がホピュラ--に、ならなかった!そのころ!!
そんな折りしも平成になり、平成10年(1998)のことです。作家・宮部 みゆき 氏の 『平成お徒歩日記』 (新潮社刊)が出版されました。そのときは我が意を得たりとおもったものでした。「徒歩」(カチ)がこれで市民権を得ることになるかなと期待したのですが、そうはならなかった。宮部さんもガッカリだったのではないでしょうか。
※近年、『ほのぼのお徒歩日記』の改題で新装版が出版されています(書き下ろし一編を加えたものです)。広く普及版となるでしょうか。期待です!
この 『平成お徒歩日記』には、ひとつのエピソ-ドがあります。
そこのところを新潮社 「波 」(1998年6月号)から引用させてもらいます。
ところで、『お徒歩日記』シリーズが平成六年の夏に「小説新潮」誌上で掲載が始まったころ、これを「おとほにっき」と読むヒトびとがおりまして、ミヤベはほうと思いました。多数の文筆業者の支持を受けるワープロソフト「一太郎」でも、普通に「かち」と打ち込んで変換したら、「徒歩」の二文字は出てきません。そこで試みに、国語辞典を引いてみました。
三省堂の新明解国語辞典(第五版)です。
かち【徒】(1)「徒歩(とほ)」の意の雅語的表現。(2)「徒侍(かちざむらい)」江戸時代、乗馬を許されなかった下級武士。
といったような次第がまかり通っていた時代でした。
あれから10有余年。ようやパソコンのく検索文字としても通用するようになり、「徒歩」(カチ)と打っただけで、いろいろ解説したものがみられます。
ちなみに、最近、三省堂の「大辞林」(第3版)で引いた解説は以下のようになっていました。
かち 【〈徒歩〉・徒】
①乗り物を使わず歩くこと。とほ。 「母御の-にて歩(あゆ)ませ給ふが御痛敷候/太平記」
②陸路を行くこと。
③武士の身分の一。江戸時代、幕府・諸藩とも御目見得以下、騎馬を許されぬ軽輩の武士。おかち。
④「徒侍(かちざむらい)」の略。
⑤「徒士組(かちぐみ)」の略。 〔③ ~⑤ は「徒士」とも書く〕
「かち」には、「徒歩」、「歩行」のほか、単漢字で「徒」」、「歩」での表記もあります。
歩くこと=「徒歩」(カチ)は万葉時代まで遡る古語でした
ともかくは「徒歩」(カチ)は古くからの語彙であり、奈良時代の『万葉集』まで遡ることになります。
『万葉集』の第13巻 3314番歌、雑歌、作者 不詳
それを引用しておきましょう。
(妻曰く)
つぎねふ 山城道(やましろみち)を 他夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し
徒歩(かち)より行けば 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ そこ思(も)ふに 心し痛し
たらちねの 母が形見と わが持てる 真澄鏡(まそかがみ)に 蜻蛉領巾(あきずひれ)
負ひ並(な)め持ちて 馬買へ わが夫(せ)
反歌・第13巻 3317番歌
(夫答えて曰く)
「馬買わば 妹(いも)徒歩(かち)ならむ よしゑやし 石は踏むとも 吾(あ)は二人行かむ」
現代訳(犬養孝)では以下のようです。
(妻)つぎねふ山城道を、よその夫は馬で楽々行くのに、私の夫は難儀しながらとぼとぼと歩いて行く。その姿を見るたびに可哀想で、声をあげて泣きたくなる。 そのことを思うと心も痛んでならない。
あなたさま、私が母の形見として大切にしている鏡と蜻蛉領巾(あきずひれ)を肩に背負って売りに行き、
その金で馬を買ってくださいませ。
(夫)私が馬を買っても二人は乗れないから、お前さんは歩かなければならないだろう。かまうものか、石を踏んで難儀しょうとも一緒に歩いて行こうよ。
※「つぎねふ」 山背(やましろ)を導く枕詞(まくらことば)です。
※「蜻蛉領巾」 トンボの羽のように薄く透き通った長いスカ-フのようなもの。
思いあいが滲む秀歌です。
このころから二足の代用として馬がつかわれていたことがわかります。でも、それはごく特別のことであり、通常は歩くのがあたりまえの生活でした。
江戸時代の役人用語としての徒歩(カチ)
都内の歴史散歩などではよく徒歩(かち)役人のことが出てきます。
江戸時代には、徒歩で将軍の護衛をつとめた下級武士、つまり騎乗が許されない武士たちがいました。彼等は御徒(徒士)、御徒歩組、御徒士衆(「御」は将軍・幕府に対する敬語))、歩行衆など、いずれも「カチ」と呼ばれていました。
お勤めは将軍の外出の際、その行列の先導に立ってボディーガードするのが主たる仕事でした。
そう頻繁な職務でないことから、常日頃は城門や中の口、御廊下などを警護していました。
「御徒歩」でいちばんわかりやすいのは、駅名にもなっている「御徒町」(おかちまち)でしょう。
上野広小路の近く、有名なアメ横のある街です。
あの一帯は「徒歩衆」の組屋敷があったところで、ズバリ名が体を表す町名です。
彼等は、切絵図にびっしり名を連ねていましたが、基本は組単位でかたまって住んでいました。
「徒歩」の話しがやれ「トホ」だ「カチ」だとアチラコチラに飛びました。
つまるところ、どっちでも、どうでもいいことなんですが、「徒歩」(カチ)がようやく徒歩(トホ)と呼び並ぶところまできたのが、ちょっとばかり嬉しいわけでして…徒歩歩歩、歩の、徒歩(カチ)!