今日の散歩は上高田、上高田寺町界隈(中野区)・のびやかな武蔵野の高台に広がる寺々!
ここにいう「上高田」という地名は、中野区の起源をもつ「中野郷」が分割されたことからはじまっていて、江戸初期に成立した多摩郡上高田村の「上高田」に由来するものだそう。そのころは「中野村」に属していた。高い台地上にある田というのが地形の由来のようです。今日の「上高田」の町割りは、昭和35年(1960 )~昭和42年(1967)にかけ整備された新しいもの。
東西南北のいずれからも坂道を登らねばならない高台にあり、水田より畑作が大半を占める江戸郊外の農村地帯でした。
いうわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文で届けします。
この上高田には寺町が二ヶ所あります。
今回はその一つ、上高田の高台に広がる寺町エリアに絞って歩いてみましょう。
西武線新宿線の「新井薬師前駅」から歩くことにしましょう。
新井薬師前駅 名の如く近くにある「新井薬師」(真言宗梅照院)への最寄駅。駅の周囲は鉄路の地下化の工事が進められており、いずれ駅前の風景も一転してしまうかも。令和9年(2027)3月末に完成予定となっています。新井薬師については別のコースで歩きたいと思います。
雑然とした北口をでると狭いバス通りに出ます。その道を北へ。
二寺のもつ静謐な空気に心がほっと癒される。リラクゼーション散歩!
上高田の北側、閑静な住宅エリアに大きな寺が二つあり、一帯に三井文庫と三井墓地があるので近くまで行ってみましょう。意外や意外。どうしてこんなところに、と思ってしまいます。
道がどん詰まってT字路になる所が三井文庫の入口。台地の縁ですが奥行がありそうです。残念ながら資料室に用事がないかぎり通常はここまで。一帯の雰囲気を確認しておわりということになります。
三井文庫 公益財団法人三井文庫。
三井本社に開かれていた三井家編纂室が大正7年(1918)荏原郡戸越(品川区豊町)に移転し、正式に三井文庫と称されるようになりました。17世紀半ば以降の三井家(越後屋呉服店・三井両替店)の古文書類と明治以降の三井系企業の社会経済史料・経営資料などを中心に、10万点にのぼります。
*品川観光協会 戸越公園「文庫の森」(旧三井文庫) 保存の旧文庫藏がみられます!
終戦後、GHQの指令により三井本社は解散。以降は紆余曲折。三井文庫も活動の停止を余儀なくされ、敷地と建物は文部省に売却され、文部省史料館の一部となり、所蔵史料は史料館に寄託されました。
昭和35年(1960)、文部省との間で三井家文書の返還交渉が行われ史料返還の見通しが立ち、ここに三井文庫の再建が決定。
昭和40年(1965)5月、中野区上高田5丁目に財団法人三井文庫が設立。
昭和60年(1985)に同所に博物館(三井文庫別館)が開館。同館は、平成17年(2005)中央区日本橋室町の三井本館へ移転し「三井記念美術館」と改称されました。
三井墓地 「野方墓所」とも呼ばれる、三井家の東京における墓所。
*年一回解放されるだけで通常は閉鎖されています。
三井家の菩提寺である本所の真盛寺が大正11年(1922)、杉並区梅里1丁目1番1に移され、墓所もそのとき大移動した。
三井十一家の歴代法名を刻した各家の墓碑のほか、越後屋奉公人877名の戒名を刻む惣石塔(総墓)などがあr、先祖や一族の霊が弔はれています。..
同14年には位牌所の野方斎堂が建てられました。
しかし、野方斎堂は空襲で焼失し、戦後、敷地の一部を電電公社に割譲、さらに残っていた土地に三井文庫が建てられ、
現在の三井家野方墓所は三井文庫の裏手にひっそりと鎮まっています。
墓所は正面奥に元祖三井高利夫妻の墓、左右に三井十一家のうち松阪家、永坂町家、五丁目家、本村町家、一本松町家の連家五家の墓域があります。連家の墓石は同じ造りなのですが、松阪家だけ、当主が墓相にこったとかで、墓の形から墓の向きまで、他の四家と異なっています。
他に初期の大番頭中西宗助一族の墓や、
奉公中に亡くなった奉公人の供養塔惣石塔2基などが立っています。
*真盛宗 天羅山養善院と号し、天台真盛宗西教寺の東京別院。寛永8年(1631)に湯島天神前に開創、天和3年(1683)谷中清水町に、元禄元年(1688)本所小梅寺町に、大正11年に当地に移転。三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺とも称されている。境内は一般公開されていません。
三井十一家 男系の6家を本家、女系の5家を連家と呼んだ。江戸時代の三井家は、居住地の名前を頭につけて通称とするのが習わしだった。
三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) – 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛[。三井家の基礎を築き、三井財閥(三井グループ)の中興の祖といわれる。「三井十一家」の基となった人物。
*墓所を管理している一般社団法人三井家同族会により、年1回1日限定で公開されています。
参考資料
*三井の年表|三井広報委員会 https://www.mitsuipr.com/history/chronology
*三井広報委員会 https://www.mitsuipr.com/history/columns/006/
上高田の台地から下る坂。坂を隔てて二寺の境内がひろがる。
光徳院 真言宗豊山派の寺。七星山光徳院。
半蔵門で開山。江戸城構築に際し、牛込市ヶ谷田町に転じ、さらに牛込柳町に移り明治43年(1910年)に当地へ移転してきました。
千手観世音 木像の本尊。子育観音と号し、菅原道真公が筑紫へ左遷のみぎり
自ら刻みて供養礼拝したというもの。筑紫の千手坊にあったが、縁あって中野宝仙寺の十四世秀雄法印に預けられ、法印の光徳院への転住により一宇が建立され安置された。
五重塔 平成7年(1995)に落成した木造瓦葺き。高さは15メートル。室生寺の五重塔を基調にしたものだが、1メートル低いそうだ。
今回の寺町エリアには入らないが、二寺ともに境内が清々しい。
東光寺 真言宗豊山派。創建は江戸時代初期で、一帯の農民の菩提所として開基されたと推察されている。中野の宝仙寺末。
昭和20年(1945)5月の戦災によって一切を焼失し、現在目にするものすべてが戦後復興のもの。
高台から続く傾斜地を背後に墓地や庭が整備されている。
古き中野郷上高田の農村の欠片をさがして歩く路地散歩!
墓地を右に見てゆくと広い坂道にぶつかる。右角に今様の道しるべ。
左に西武新宿線をみながら坂道をのぼること、150メートルほどで「上高田中通り」に出る。
左手角にりっぱな庚申塔。笠付は珍しい。
笠付庚申塔 青面金剛の陽刻、笠は左部分が欠落しているが、なかなか立派。このあたり、賑やかな辻だったんでしょう。
享保四己亥(1719)九月吉日 奉造立庚申供養講中祈二世安楽とあります。
村で病人が出たときなどにはっこで祈願し、病が治ると底を抜いた柄杓に大願成就と自分の名前を書いたものを供える風習があtったとか。さきの東光寺さんが管理しているものらしい。
上高田中通りの踏切を渡り南に。「五中つつじ通り」を過ぎたさきで変形五差路を右斜めに進みます。
50メートルほどすると垣根をめぐらした静かな一角が広がります。武蔵野が農村地帯だったころの風景と、大農家の佇まいを彷彿とさせる。童謡「焚き火」の舞台となったところとされています。
名主・鈴木家 もとは茅葺き屋根だったが、戦前、上の勾配がゆるく下になると急になる構造のムクリヤネにかえられた。
*通常、敷地への一般開放はしていません。
竹垣 竹の垣根。植木を使った垣根は「生け垣」。
けやきの大木がそびえ垣根の続くこの一角では、今もほのかに昔の面影をしのぶことができる。
童謡「たきび」の歌発祥地 かきねの かきねの まがりかど/たきびだ たきびだ おちばたき/「あたろうか」「あたろうよ」/きたかぜ ぴいぷう ふいている
*作詩者・巽聖歌(たつみせいか) 岩手県に生まれ(1905~1973)。北原白秋に師事した詩人。昭和5、6年頃から約13年の間、萬昌院の近くに間借りしていた。このあたりは散歩コースで、「たきび」のうたの詩情がわいたところらしい。
*童謡「たきび」 昭和16年(1941)、NHKのラジオ番組「幼児の時間」の番組案内のテキスト『ラジオ小国民』で詞が発表され、12月に「幼児の時間」の放送内で曲が発表された。
戦争中はたき火が火事のもとになる、敵機の攻撃目標になるから歌わせるべきではないと放送中止になった。戦後、昭和24年(1949)NHKのラジオ番組「うたのおばさん」で歌われ広まった。
昔は竈も囲炉裏も薪が火力の資源だった。燃やしやすい大きさに割る薪割りは農家のひと仕事であった。
路地から上高田中通りに出て右へちょっと。右手にお堂がある。中に石仏が祀ってある。
馬頭観音 文政7年(1824)建立。馬頭観音だ。中野郷の荷役、労役で活躍した馬供養のあらわれといえよう。さきの笠付庚申塔といい、「上高田中通り」が古くからの往来道だったことがわかる。
「上高田中通り」を渡り南にまっすぐゆくと氷川神社にぶつかる。上高田の鎮守だ。
上高田氷川神社 須佐之男尊が祭神。上高田の鎮守さま。
享徳2年(1453)、農村の有志達が須佐之男尊の御神徳を慕い、武蔵大宮氷川神社より勧請したもので、長禄元年(1457)には、太田道灌が江戸城を構築するにあたり、しばしば当社に詣で、御礼に松一株を植栽したと伝えられている古社。
3年に一度の本祭(かつての村祭り)には屋根から台座まで総彫の神社神輿が出御する。新潮されたもので、有名な千葉行徳の神輿師・名人後藤茂助氏の手掛けたものとして知られる。
境内に銀杏の巨木。季節になるとわんさと実が採れる。いつか訪れたとき小袋に入れた銀杏をおすそ分け頂いたことがあった。
鳥居をぬけ、一本北側の「桜が池通り」(区道)に出ると左手に華やかな旗竿がはためく。
櫻ヶ池不動院 近隣にある東光寺の別院。桜ヶ池不動尊・桜ケ池。昔より清水が湧き出て、不動明王が祀られ、地元の人々の灌漑用水に用いられてきた。また講中のや清め、水垢離や雨乞いの神事、子どもの遊び場としても地域の人々に親しまれてきたという。
湧水は「不動様の清水」、不動様を「桜ヶ池の不動様」と呼んだそうだ。
桜が池に因む愛称の「桜が池通り」を上る。台地に続く長い坂だ。
上高田台公園 高田に「台」が付く台地上の公園。桜が池通りの途中、上高田4丁目にある。広い敷地に木製アスレチック遊具が設置されている。子供向けのすべり台やターザンロープ・ネット登り・吊り橋など、トンボ池や花木などもあるので親子でのんびり過ごせそう。
600メートルほどで「上高田中通り」に合流。
上高田の寺町を歩く!
上高田寺町 1923年の関東大震災以降は、東京市の都市計画、区画整理、博覧会会場や明治神宮の敷地確などにより浅草ほかから寺院の引越しが始まり寺町を形成するようになった。「上高田寺町」と俗称される。この辺りは高台のうえ、高い建物もないので見晴らしに爽快感がある。
万昌院功運寺 曹洞宗の寺。本尊は釈迦牟尼仏。万昌院と功運寺という別々の寺が昭和23年(1948)に合併したもの。正式名称は龍寶山萬昌院功運禪寺。
吉良と浅野。あまりにも有名な「忠臣蔵」「松の廊下事件」。浅野内匠頭が高輪の泉岳寺なら、一方の吉良上野介は上高田の万昌院功運寺に眠る!
〇万昌院 久宝山といい、 今川義元の三男長得( ちょうとく)が、天正2年(1574)に麹町辺に開いた寺院。江戸城の拡張により市ヶ谷に移り、さらに牛込筑土八幡町に移転、大正3年に現在地に移転。同6年大火を蒙り、記録書籍・書院・庫裡悉くを焼失。
長得の兄・氏真の娘が吉良家14代義定に嫁し、さらに義定の子15代目義弥が氏真の孫娘を迎えたので、今川・吉良両家とも血縁がふかまり、またどちらも足利の支流ということで両家の関係が二重三重に濃くなった。この縁で義定‐義弥‐義冬‐義央(上野介)の墓が設けられたのだろうと識者はいう。
〇功運寺 開基は永井尚政(ながい・なおまさ)。龍谷山と号した。尚政が祖父重元、父直勝の菩提のため、慶長3年(1598)桜田門外に建立、後に三田に移転、大正3年現在地に転じ、昭和23年万昌院と合併した。
中央に道元禅師の像
万昌院功運寺・歴史人の墓めぐり!
林芙美子の墓 文字は川端康成。昭和26年6月28日(1951)没。享年48歳。小さな「林家累代墓」が並ぶ。ここから近い下落合・四の坂の自宅で死去。死因は心臓麻痺。7月1日、自宅で告別式、遺体は落合火葬場で荼毘に付されれ、8月15日に萬昌院功運寺に納骨。純徳院芙蓉清美大姉。葬儀委員長は作家・川端康成であった。
葬儀のおりの川端康成の弔辞は文壇史に残るものとして語れるものだった。
「故人は、自分の文学的生命を保つために、他に対して時にはひどいことをしたのでありますが、しかし、あと、2、3時間もすれば、灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか、この際、故人をゆるしてもらいたいと思います」。
ライバル意識の強かった芙美子だったが、たくましい反面で「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」と詠嘆する人生でもあった。
歌川豊国 浮世絵師。 明和 6年(1769)~ 文政 8年 (1825)
歌川派中興の祖といわれ、多くの門弟を輩出し、歌川派の興隆をもたらした。歌川広重も入門を希望したが、門下生満員として断られ、歌川豊広に弟子入りした。享年57歳。法名は得妙院実彩麗毫信士。
吉良家墓所 ひときわ際立つ墓石が4基並んでいる。高さ二メートル程で宝篋印塔のようでもあるが五輪塔にも似ている墓石。
左から14代(義定)、15代(義弥・よしみつ)、16代(義冬)、17代。つまり17代の当主上野介・吉良 義央(きら よしひさ)が一番右端。
吉良家忠臣供養塔 五輪塔。新しもののようだ。
*上杉家と吉良家では、上杉家は上野介の息子(母親は富子)が養子となり当主を継ぎ、上杉家から吉良家の跡取りに孫が養子に入るというニ重・三重の縁戚関係をもっていた。
*吉良富子(戒名は梅嶺院清巌栄昌大姉) 上杉から吉良家に嫁いだ後に富子と改名。義央との間には二男四女をもうけた。討ち入りで夫・義央が死去すると、富子は落飾し梅嶺院と号し、その菩提を弔った。どうしたことか、死後に吉良家の菩提寺万昌院から広尾の東北寺に埋葬されている。
今川長得の墓 一月長得(いちげつちょうとく)とも称した。母は武田信虎(武田信玄の父)娘。第9代当主・今川義元の三男。長子でない為に出家を余儀なくされ、曹洞宗の僧侶となった。
天正2年(1574年)、江戸に万昌院を開いた。今川家の直系としては、父の死後に今川家が滅亡し、後に兄の今川氏真が徳川家康から高家として迎えられるとこれに従った。
慶長19年(1615)に氏真が亡くなった時に弔いを行ったのは長得で、萬昌院に葬られ、このときから萬昌院が菩提樹とされ、氏真の孫・範英により杉並の観泉寺に移るまで今川家にとって墓所となっていた。
また万昌院は、今川家と極めて近い姻戚関係にあった吉良家の墓所ともなった。
〇今川氏直(いまがわ うじざね) 駿河今川氏10代当主。父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受け敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、徳川家康の庇護を受け、江戸幕府のもとで高家として家名を残した。
〇今川氏真の娘は吉良野介義定に嫁いでおり、息子の範以は逆に上野介義安の娘を妻にしている。
水野十郎左衛門墓 旗本奴・大小神祇組を組織し町奴と対立。市中を横行無瀬の生活を送っていたが、侠客幡随院長兵衛との対立。1657年(明暦3年)幡随院長兵衛を殺害。1664年(寛文4年)幕府により切腹を命じられ、家名も断絶した。(但し「十」ではなく「重」になっている)
栗崎 道有(くりさき どうう) 江戸時代中期の蘭学医。道有は栗崎家世襲の号。「露」を意味するオランダ語dauw(英dew)に由来するもの。 道有は、寛文4年(1664年)長崎で外科医の子として生まれた。オランダ流の外科を習得し元禄4年(1691年)、江戸へ出て幕府の官医となった。
元禄14年(1701)、浅野長矩が江戸城内で吉良義央を斬りつけた際には、義央の治療を行っている。
永井家墓 大名。老中。常陸笠間を皮切りに、古河、淀10万石などを領した。功運寺開基である永井尚政より、永井家の菩提樹となる。
永井尚長墓 墓域には尚長の墓もある。増上寺での将軍家綱の法要という儀式の最中に、浅野長矩の母方叔父にあたる内藤忠勝に殺された.。義士事件前、延宝8年(1680)6月26日のこと。永井氏二代当主であった。
永井尚政 永井尚政は「信濃守」と呼ばれ信濃町一帯に下屋敷をもっていた。これが信濃町という地名の由来とされる。
大関増業墓 下野国黒羽藩(栃木県那須地方)11代藩主。名君として評価されている。下町・三ノ輪の近くに大関横丁(下屋敷跡)の名を残す。戒名・括嚢院殿通理美中大居士。
万昌院功運寺の南に隣接して宝泉寺がある。
見晴らしに恵まれた寺々。寺で爽快な気分に包まれるひととき!
宝泉寺 曹洞宗の寺。永禄5年(1562)江戸城の清水門のところに開創した。慶長年間(1596~1614)に田安台に移されさらに元和二年(1616)江戸城の拡張のため牛込横手町(新宿区)移された。幕末・明治維新を迎え、明治41年現在地に移転。境内には小田原最乗寺の道了堂があり、「道了さま」として人びとに親しまれている。
板倉重昌の墓 「島原の乱」の鎮圧軍の総大将。父は京都所司代・板倉勝重。三河以来の家康近習。乱の戦況はかんばしくなく、幕府は「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱の派遣を決定した。この場に及び、責任を痛感した重昌は、「原城」を総攻撃し、自ら戦死を遂げた。
高さ約3mの五輪塔の中央には「劔峰源光大居士」
右に「寛永十五戌寅歳」、左に「正月朔日」と刻まれている。寛永十五年(1638)は重昌が「島原の乱」で戦死した日にあたり、金石資料としても貴重なものだとされる。
有名な方広寺事件で、家康の使者として「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘は家康批判であると豊臣方に強硬にせまり、これが発端となって豊臣氏は滅亡へと進んでいった。
願正寺 東護山願正寺。浄土真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。天正十18(1549)了善法師が外神田に創建、初めは光瑞寺と号し、後に本願寺に属し現号に改めた。寛永の頃は麹町にあったが、江戸城の外堀開鑿のため立ち退きを要求され、延宝八年(1680)牛込原町に転じ、明治43年現在地に引っ越してきた。
万延元年遣米使節団 江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために、万延元年(1860)に派遣した77名から成る使節団。米船ポーハタン号に乗り、咸臨丸とともに品川を出港。開国後、最初の公式訪問団であった。その使節団の主役をつとめた新見正興のj墓がある。
墓は墓地の奥まったところひっそりと静まるようにしてある。
三人のほか、役人17人、従者51人、賄方6人の計77人が渡米した。
美男とと言われた新見正興、美人と言われた柳原白蓮。
余談ですが、こうなります。
柳原白蓮と新見正興(叔父) 正興の3番目の娘が公家の柳原家に嫁ぎ、生まれたのが白蓮です。
新見豊前守正興の墓 幕末に遣米使節の重責をはたした旗本。安政6年(1859)外国奉行に抜擢され、先に締結された日米修好通商条約の批准書交換のため特派使節になった。
ワシントンでアメリカ大統領に会見し大任を無事に果たし、大西洋経由で帰国。国内で攘夷論が盛んな中で広く得た見聞を生かす機会もなく、元治元年(1864)職を退き明治2年(1869)48歳で病没。
記念樹 大正7年(1918)、モーリス・アメリカ全権大使が、また昭和35年(1960)には、駐日大使ダグラス・マッカーサー二世が墓を訪れ花を捧げた。
大雄山境妙寺 日蓮宗に属し、高耀山寂光寺と称して麹町の貝塚に開かれた。
寛永6年(1629)江戸城拡張のとき、千駄ヶ谷に移転。元禄11年(1698)天台宗に改宗。天保5年(1834)に境妙寺に改称。大正4年(1915)、外苑造営のためここ下高田に移転。塙保己一の菩提寺だとされるが、墓は新宿の愛染院にある。
塙保己一 江戸時代の国学者。7歳で失明。15歳で埼玉の保木野村(本庄市)より江戸に出て、学び使えた検校から学問を進められた。和漢に通じ、音読を暗記し学識を高めついに『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)を編集、40年の歳月を費やして完成した。
*『群書類従』 江戸の初期までに刊行された史書や文学作品の目録を集大成したもの。
金剛寺 恵日山金剛寺。曹洞宗。建長2年(1249)波多野中務大輔忠経が源頼朝を弔うために相州波多野田原村に臨済宗の寺として建立した。後に江戸小日向郷金杉村に移し、その後文明年中(1469~87)太田道灌により再興。下って中興の叔悦禅師にょり、永正6年(1509)曹洞宗に改められた。
墓は広い墓地の最奥。展望抜群の一角にある。「内田榮造之墓」と墓碑は刻まれている。
戒名「覺絃院殿随翁榮道居士」、「昭和四十六年4月廿日没 行年八十三歳」が側面に、建立年月が「昭和四十八年四月廿日之建 摩阿陀會」と刻まれている。
弟子たちの集まり「摩阿陀會」のことは、黒澤明監督の映画「まあだだよ」でも描かれた。その「摩阿陀會」の建立とおもわれる。
*内田百閒(うちだひゃっけん) 夏目漱石門下。実家の老舗の酒屋の没落、そして借金地獄。「百鬼園先生言行録」や『百鬼園随筆』の「百鬼園」って「借金」のもじりという。ファンには「阿房列車」三部作よく読まれる。特急に乗るためだけに大阪まで行った話。
句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」。因んで忌日の4月20日を「木蓮忌」という。
下高田の寺町散歩も最後。
神足寺(じんそくじ) 浄土真宗 大谷派。慶長12年に江戸木挽町に創設し、月岬山神足寺と号した。八丁堀、西久保赤羽、三田と移転、明治43年(1910)、下高田の地に移転した。
開山の行心和上さまは走るのが早く、「神のごとき足」という意味で「神足寺」と名付けられたという逸話がある。 もとは武士だったが教如上人にひどく共鳴し出家したという。
かつての展望がしのばれる。
それぞれの寺に自然があり風情が備わっていましたね。
神足寺の塀をまくように坂を下る。
けっこう急傾斜の坂。下高田の高低差がよくわかります。
坂を下り切ったところで左に向かうと妙正寺川のたもとに出る。
妙正寺川 杉並区の妙正寺公園内妙正寺池が源。途中で江古田川を、西武新宿線下落合駅付近で落合水再生センターからの放水路とそれぞれ合わせ、新目白通りの下を流れ、新宿区の高田橋付近で神田川に合流する。
かつては急流で水流があったことから水車が回っていたという。
おもいのほか清流で流れもいい。
川沿いに旧橋の遺構が残されてる。
林芙美子の住んでいた家(林芙美子記念館)が近い。その当時は下落合(いまは中井)。崖線をうまく利用した庭。山口文象による数寄屋風の邸宅。昭和26年に死去するまでの10年間、ここを中心に数多くの作品を書き上げました。いまは新宿区に寄贈され「林芙美子記念館」になっています。
では、昭和8年(1933)の随筆 「落合町山川記」 の一節を引いて終わりにしましょう。
「東中野の駅までは私の足で十五分であり、西武線中井の駅までは四分位の地点で、ここも、妙法寺の境内に居た時のように、落合の火葬場の煙突がすぐ背後に見えて、雨の日なんぞは、きな臭い人を焼く匂いが流れて来た。
その頃、一帖七銭の原稿用紙を買いに、中井の駅のそばの文房具屋まで行くのに、おいはぎが出ると云う横町を走って通らなければならなかった。夜など、何か書きかけていても、原稿用紙がなくなると、我慢して眠ってしまう。ほんの一、二町の暗がりの間であったが、ここには墓地があったり、掘り返した赤土のなかから昔の人骨が出て来たなどと云う風評があったり、また時々おいはぎが出ると聞くと、なかなかこの暗がり横町は気味の悪いものであった。」
それでは、また。
そうそう西武新宿線・中井駅前に歌手・八代亜紀さんの絵画を展示する喫茶店があります。オーナーが亜紀さんの大ファンなのだそう。一服するならここで。
歌手活動しながら画才も発揮していたなんて。歌にもエネルギーがありましたね。
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