今日の散歩は東銀座・木挽町の界隈(中央区)・幻の芝居町を歩いてみょう!
平成25年4月2日、平成の歌舞伎座がオ-プンしました!
高層の歌舞伎座タワー(オフィスタワ-)。
歌舞伎座と歌舞伎座タワーを併せて「GINZA KABUKIZA」。
「イザ、ギンザ、カブキザ」がキャッチコピ-となっています。設計は建築家・隈研吾。
歌舞伎座の歴史を遡ってみると、歌舞伎座がここに建つべくして建てられる下地が、すでに江戸時代にあったことがわかります。
というわけで、以下そんな散歩コ-スを拙文と写真でお届けします。
江戸三座の芝居町は木挽町と葺屋町(人形町)にあって二丁町と呼ばれました!
今日はその木挽町(こびきちょう)です。
東銀座の一帯は古くはコビキチョウという呼び名で親しまれていました。
旧木挽町 「切絵図」でみると、三十間堀と築地川とに挟まれた地区が旧木挽町で、その町名は江戸初期に江戸城の築城工事に従事する木挽職人を多く住まわせたところに由来するといいます。のちに寺や武家地、町人地も形成されましたが、
とくに堀沿いに芝居小屋が集まり木挽町=芝居町のイメ-ジが江戸っ子たちには浸透していました。
当初の木挽町は三十間堀沿いにあった町屋で、明治以降に町域が広がっていったとみていいでしよう。
〇埋立造成地 家康が江戸に入ったころは日比谷まで入江(日比谷入江)が入り込んでいたといいます。
その入江が慶長8年(1603)の最初の天下普請で埋め立てられ、東銀座・銀座・京橋といったあたりが整地され町人地がうまれました。
俗にいわれる、神田の山を切り崩し埋めたというのがそれでした。歌舞伎座のあたりがそのころの海岸線であったといわれます。
そのときの海の名残りが築地川であり三十間堀川(さんじっけんほりかわ)で、つまりあらかじめ水路として利用するため埋め残された部分でした。
晴海通りを銀座方面に歩き三原橋交差点を渡りましよう。
交差点の名にある三原橋は、もうちょと行ったところの三十間堀川に架かっていた橋でした。
三十間堀川跡 家康は慶長17年(1612)、
舟入堀を整備しました。堀の幅が三十間(約55メ-トル)あったことから命名されました。
西国大名に工事を命じて開削させ、新しい土地を造成させました。銀座、京橋などの土地はそのとき誕生しました。
堀に沿って両側には庶民の住む町屋、西側に三十間堀町、東側に木挽町を配しました(切絵図参照)
こうした由緒ある堀も、戦後の、戦災がれきの処理の為に埋め立てられ、
昭和32年(1957)頃までに京橋川から汐留川までの間が埋め尽くされたとたといいます。
三原橋地下街 三十間堀川の埋め立てに際し川に架かっていた三原橋のにオ-プンしました。
フランク・ロイド・ライト(帝国ホテル、自由学園明日館の設計者)に師事した昭和のモダン建築の旗手・土浦亀城(つちうら・かめき)の設計デザインによるものでした。
銀座シネパトス1・2・3と3館の映画館がありました。それよりも「銀座地球座」や「銀座名画座」といっほうが懐かしい世代がいるかもしれません。
ニュ-スを専門とする映画館もありました。残念なから老朽化もあって、平成25年3月31日をもって閉館し、地下街は解体されました。
晴海通りを挟んで三原橋地下商店街の北側と南側に建つビルを結んだラインが川筋で、
大雑把ですがビル幅がほぼ川幅だったとみていいでしよう。
三原橋交差点から二つ目の左右に走る通りが、三十間堀川の跡にほぼ相当しています。
晴海通りを渡りそちらの通りに入りましょう。
江戸時代の町割からすると、正確には道路の左側に芝居小屋、
道路をはさんで、
右手に水茶屋とか土産物屋などの家並が続き、その裏手に土手があり堀があったのでしょう。
もっと正確には右側のビルのうしろ半分は堀の上に建てられているということです。
堀には荷揚場として河岸が築かれ、
商船や屋形船などで大変賑わったといいます。
文政11年(1828)町人地としての両岸の河岸地が広げられ、堀幅は19間に狭められました。
とくに木挽町の5~7丁目にかけては堀に沿って芝居小屋が並び江戸の一時期、一大繁華街が形成されました。
余裕のる芝居見物者は船で乗りつけたといいます。
木挽橋跡 江戸図等には「三十万橋」と書かれていものもあり、明治以降も木挽橋として残っていましたが、堀の埋立で廃され、現在はみゆき通りが通じています。近くの公衆トイレに木挽橋の名がつかわれています。木挽橋から先の左手に芝居小屋が並んでいました。
江戸歌舞伎・木挽町三座~山村座は「絵島生島事件」で廃座になりました!
- 寛永19年(1642)に「山村座」が誕生、
- 慶安元年(1648)に「河原崎座」が誕生、
- 万治3年(1660)に「森田座」が誕生、
三座そろって「木挽町三座」と呼ばれ賑わいました。
その後、合併などを経て、正徳4年(1714)以降は、日本橋の「中村座」「市村座」、木挽町の「森田座」が幕府から歌舞伎興行を公認され「江戸三座」と呼ばれるようになりました。
図は『江戸名所図会』に描かれた天保5年(1834)頃の「森田座」あたり。道を埋め尽くすほどのすごい人波です。
「江戸三座」は天保13年(1842)年から翌年にかけ、「天保の改革」の一環で猿若町(台東区浅草六丁目)へ移転させられました
河原崎座 慶安元年(1648)越前山崎出身の河原崎権之助が木挽町に「河原崎座」を建てましたが、寛文3年(1663)に、森田座に吸収合併され消滅してしまいました。
河原崎座から出た河原崎長十郎は29歳の時、世襲制など歌舞伎の因習を打破する運動を起こしました。しかし「歌舞伎座」の座元から反発をくらい、親戚すじのった団十郎家とも袂を分かち、中村翫右衛門らと新しく「前進座」を創設しました。今日ある劇団・前進座です。
山村座跡 森田座の南隣に寛永19年(1642)開場。存続期間は72年間。
寛永19年(1642)山村小兵衛によって開かれ、木挽町を芝居の街にした歴史上最初の芝居小屋として知られます。
江戸四座の1座に数えられていましたが、正徳4年(1714)に起こった「江島生島事件」で廃座に追い込まれました。
江島生島事件 7代将軍徳川家継の生母・月光院(6代将軍家宣の側室・左京局)に仕えた大年寄(大奥女中の総頭)の絵島(江島)と、名代の歌舞伎役者・生島新五郎とのスキャンダルが露顕した事件です。
背後には、権勢を振るう月光院とその勢力と、6代将軍家宣の正室・天英院とその勢力が対立化し、月光院勢力の転覆を図るために幕閣が天英院側と仕組んだ可能性が高いとみられています。
月光院と大年寄・絵島は、家継の学問の師で幕政の中心にあった新井白石や側用人・間部詮房(まなべろあきふさ)らと親しく、
当時の幕府の中枢を手にしていました。これに反感を抱いたのが天英院をはじめとする勢力でした。
事件は、正徳四年(1714)正月12日に、絵島らが月光院の名代として上野の寛永寺および芝の増上寺に参詣した時、その帰途に木挽町の芝居小屋山村座に遊び、帰城が夕暮れに及んだことに端を発しました。
3月5日、評定所の判決が下り、絵島の兄の白井勝昌は死罪、絵島は死罪を減じられ遠流とされ、なお、月光院の願いによって高遠藩に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移され、囲い込み屋敷に隔離されました。
生島新五郎は三宅島に流罪されたが、事件の翌年に赦されて江戸に帰ったといいます。
絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、寛保元年(1741)に61歳の生涯を閉じたのでした。、
※絵島囲い込み屋敷 長野県伊那市高遠町にあります。
質素な建物で、屋敷牢になっていました。絵島はここで20数年間、主に読経生活で過ごしたといいいます。
懺悔や怒りや諦観を経て、最後は信心に救いを求めていたのかもしれません。絵島の和歌にそれが滲んでいます。
浮き世には また帰らめや武蔵野の 月の光のかげもはづか
江戸時代の三十間堀川は汐留川に合流していました。いま川は埋め立てられ上を「東京高速」が走っています。
図の右下方面にゆくと「浜離宮恩賜公園」があります。
つきあたりの高速道路の下、植え込みに三十間堀川の護岸の石が保存されています。
三十間堀の石
三十間堀は京橋川から汐留川にいたる横堀川でした。慶長十七年(1612)江戸の船入堀(ふないりぼり)を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。堀幅が三十間(54m)あったために三十間堀と呼ばれました。文政十一年(1828)に幅を十九間(34.5m)に狭めたといわれています。江戸時代初期の『寛永江戸図』に三十間堀と見え、堀の南側は紀伊徳川家をはじめ、京極、加藤、松平などの諸大名の屋敷が並んでいました。延宝年間(1673~81)の図では西岸は三十間堀町1~8丁目、東岸は木挽(こびき)町1~7丁目で、河岸場があり、舟運の荷物の揚げ場でした。幕末から明治時代にかけて、船宿が並んで屋形船や屋根船が往来し、明治34年の『新撰東京名所図会』にも、その賑わいの様子が描かれています。明治17年三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。三十間堀は戦後、灰燼の山を処理するために、昭和23年から埋立てが始まり、昭和27年7月に完了したあとは次第に商店やオフィスなどの立ち並ぶ街になりました。 平成10年3月 中央区教育委員会
信楽茶屋跡 、脇の大きな石は、旧料亭「蜂龍」の跡地から発掘されたもので、ここは『江戸名所図絵』にも描かれた、今日の信楽通りの由来をもつ「信楽茶屋」跡といい伝えられています。
昭和通りに出て、三原橋方面に歩いてゆくと、
東武ホテルの少しさきの右側、歩道わきに「森田座」跡の説明版があります。
森田座跡 万治3年(1660)、初代の森田勘弥を座元に芝居小屋「森田座」がここで櫓を上げました。幕府公認の官許の芝居小屋でした
しばらくすると歩道橋の下にまとまった大石がいくつかあります。
手水鉢(汐留遺跡) 汐留再開発のときに出土したものです。
間知石(まっちいし・けんちいし)と切石 やはり汐留再開発で出土したもので、石垣を組むときに生じた隙間をうめるときに使われました。
建築礎石 汐留再開発のとき出土した建物の礎石で、仙台藩(宮城県)伊達家上屋敷の土台石として使われていたものといいます。これくらいの石は、開発のとききちんと発掘調査すれば、ゴロゴロ出土していたはずです。
それにしても、工事の請負業者さんでしょう、こうして几帳面に残してくれた「東京都第一建設会社」さんには感謝です。
歩道橋を渡りおえると向かいのビル角に説明板があります。
狩野画塾跡 江戸幕府に仕えた奥絵師、狩野四家の木挽町狩野家の屋敷があったところです。
画塾が開かれ、ここから多くの画家が生まれました。江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家、
木挽町の分家の浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。日本画壇の狩野芳崖、橋本雅邦はともに木挽町狩野、雅信(勝川)の門下生でした。
画塾跡の右手通りを反対側に渡ってあるくと、すぐにもうひとつ説明板が左手にあります。
佐久間象山塾跡
この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(長野県)松代藩士佐久間象山の私塾がありました。象山は初め儒学を修め、天保十年(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永四年(1851)兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に兵学塾を開きました。嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家)の画塾と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で常時三十~四十人が学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本左内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命じられて塾も閉鎖されました。 平成22年3月
このまま采女橋の方に歩いてゆきましょう。
采女橋公園前交差点の近くにSQUAREビル(旧・日産自動車本社ビル本館)があります。
その近くの植え込みの中に発祥地の石碑があります。
東京商工会議所発祥の地
明治維新の国是をふまえ 欧米諸国の制度文物を取り入れ 時の産業界の指導者が相携えて 明治11年3月12日商工業発展のための総合的組織体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所をおいたのがこの地である。ここには明治24年以来農商務省ついで商工省が昭和18年まで所在し、明治・大正・昭和の3世代に亘って日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった。昭和53年3月12日、東京商工会議所創立100周年にあたり、ここに記念碑を建てて後世に残すものである 東京商工会議所会頭 永野重
采女ケ原(うねめがはら) もとは伊予今治藩(3万5000石)、「松平采女正定基(まつだいら・うねめのしょう・さだもと)」の江戸屋敷でしたが、
屋敷が焼失し麹町へ移転したのちは、「馬術訓練場」となり、空地一帯に,「茶屋」,「見世物小屋」など開かれ賑わったものの、夜になると暗くて物騒な場所と化したようです。
采女橋(うねめばし) かつて築地川に架かっていた橋でしたが、現在は首都高都心環状線上に架かっています。
この辺りは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保九年(1724)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。采女が原は明治2年采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。震災復興時(昭和4年9月~同5年10月)に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。中央区では平成2年度に、幻のホテル「築地ホテル館(明治元年近代的な様式ホテル第1号として誕生して栄華を誇ったが、同5年に焼失)」と「銀座の柳」をモチーフにした意匠で高欄などを整備しました。
形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋/橋長 42.0m/有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0×2)/着工 昭和4年9月/竣工 昭和5年10月/執 行 者東京市
采女橋跡の近くに新橋演舞場があります。
新橋演舞場 芸妓の演舞場や歌舞練場がないことから建てられたもので、大正14年4月1日に竣工。
新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋2季に「東をどり」を主に公演してきましたが、昭和15年に松竹と興行契約を結び、
松竹傘下の大劇場となり、歌舞伎、新派、新喜劇、新国劇、前進座などの公演を定着させてゆきました。
昭和54年(1979)に老朽化で改装のため閉場。同57年に新装されたのが今日の演舞場(日産自動車本社ビルと複合)。
最新システムの導入しながらも旧演舞場設計の精神が大切に受け継がれているといわれています。現在の客席は1428名。
ゆかりがあるといえば、劇場のある一帯は、芝居狂言「鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」(三大御家騒動のひとつ)のお初が、主人尾上の敵である岩藤を討った松平周防守の下屋敷跡であるということでしょうか。
豊富なイラストでわかりやすく説明しています。
歌舞伎を見てみょうとする初心者にはとても理解しやすい一冊です!
歌舞伎の観劇の方法、ストーリーはもちろん、衣装・髪形・化粧など、歌舞伎に関する「知ってると、いい」をあれこれ丁寧に解説しています
※東をどり 毎年5月28日は「東をどり」の初日。東銀座の一角に華やいだ空気が満ちあふれます。
新橋芸者が1年間かけみっちり稽古に励んできた、その成果を披露する発表会です。新橋が花街だった香りを残すものといえるでしょう。
新派の碑 新橋演舞場は劇団「新派」のホ-ムグランドでした。碑は劇場前にありましたが、新派の当り狂言「婦系図」の名場面の舞台である湯島天神に移設されました。碑文は川口松太郎が揮毫。
入口を通り越して奥にゆくと新橋演舞場稲荷大明神とふたつの碑が並んでいます。
沢田正二郎歌碑 大正から昭和の初期に活躍した大衆演劇の役者。劇団・新国劇を創設し座長をつとめました。
「何処かで 囃子の声す 耳の患い」という歌が刻まれています。
耳を患い、それがもとで若くして生涯をとじました。享年38歳。
曾我廼家五郎歌碑 近代喜劇の名役者。
「帝都進出三十周年記念 むさしのや 三十年は泣き笑ひ」と刻んだものです。
演舞場の前の通りを晴海通りの「万年橋」のほうに歩いてゆきましょう。
右手にはかつて築地川が流れていました。
築地川 京橋、銀座、新橋といったあたりは海の埋立て造成によって出来ところでした。そのとき川輸送を念頭において埋め残された部分が築地川となったと考えられています。
築地の明石堀から分流し、入船橋を通り、中央区役所付近から首都高速都心環状線に沿って、浜離宮恩賜庭園の東側を流れ隅田川に合流する河川でした。
万年橋 築地川を渡る橋でした。石製で丈夫だったことが名の由来といいます。
築地川は昭和30年代に高速道路の用地となり、万年橋はその道路上に架かる橋となりました。
昭和3年(1928)に関東大震災の復興事業として架けられたものでがっしりとできてます。
万年橋を左に向かうと東銀座駅、歌舞伎座前です。
ぐるっとめぐってきましたが、
さて、明治維新を経てですが、
明治22年(1889)11月21日、その日を初日として、ふたたび木挽町に芝居の伝統の灯がよみがえりました。
歴史的な歌舞伎座の開場でした。洋風造りで内部は和風3階建て定員1824人、日本最大の劇場となりました。
それから、2代目、3代目(岡田信一郎設計)、4代目(吉田五十八設計)/平成14年に国重要有形文化財に指定されたものの、平成22年4月の公演を最後に建替えることとなり、平成22年4月28日千秋楽、30日閉場式がおこなわれました
そして月日はめぐって、平成25年4月2日、5代目(隈研吾設計)の歌舞伎座が開場しました。
さあ、最後にお稲荷さんをお参りしておわることにしましょう。
歌舞伎稲荷神社 歌舞伎座の木挽町通り側の建物右端にある。歌舞伎座ができた時に大入りと安全を祈願して勧請されたもの。役者さんたちも楽屋入りするとき、ここでパンパンと柏手をうつのでしょう。御朱印はエレベーターで5階に行くと受け付けてもらえます。
時間があれば、
歌舞伎座の地下階におりて「こびきちょうひろば」でくつろいでから帰るのもいいでょう。広いフロア-に歌舞伎、歌舞伎座にちなんだお土産やグッズがどっさりあります。
散歩のお土産は、歌舞伎の演目に因んだ、こんなものがいいのではないでしょうか。大黒堂の「歌舞伎狂言煎餅」!